妊鍼
目次
- 妊孕力を高める奇経治療🌟
- 妊孕力を高めるお腹のツボ🌟
- 妊孕力を高める足のツボ🌟
- 妊孕力を高める背中のツボ🌟
- 証と予後🌟
- 男性不妊に対する精子の数を増やし活動率を向上させる治療法🌟
- 岡本一抱に学ぶ東洋医学における発生学🌟🌟🌟
妊孕力を高める奇経治療🌟
- 右照海-左列缺+右太衝-右通里に主穴に5壮、従穴に3壮知熱灸。
- 原疾患がある場合
- 子宮筋腫 照海(患側)-列缺(健側)+太衝(患側)-通里(患側)or公孫(患側)-内関(患側)。
- 卵巣嚢腫 照海(患側)-列缺(健側)+太衝(患側)-通里(患側)or陥谷(患側)-合谷(患側)
- セルフケア 自宅でドライヤー灸&金銀粒貼付。
妊孕力を高めるお腹のツボ🌟
- 中条流4点と中極に知熱灸3壮。
- 無月経、無排卵があれば石門に上向きに皮内鍼を貼付。※毎回張り替える。
- セルフケア 中条流と中極にドライヤー灸各3壮。
妊孕力を高める足のツボ🌟
- 蠡溝、三陰交、中封、至陰に知熱灸。左右を比べて圧痛の強い側に5壮、反対側に3壮、左右差がなければ3壮ずつ。
- セルフケア 自宅でドライヤー灸。
妊孕力を高める背中のツボ🌟
- 腎兪、大腸兪に知熱灸。左右を比べて圧痛の強い側に5壮、反対側に3壮、左右差がなければ3壮ずつ。
- 志室の下方の反応点。左右を比べて圧痛の強い側だけに知熱灸3壮。
- セルフケア 自宅でドライヤー灸。背中なのでご主人にやってもらう。
証と予後
動画
男性不妊に対する精子の数を増やし活動率を向上させる治療法🌟
- 右照海-左列缺+右太衝-右通里。
- 中条流4点+中極。
- 三陰交、中封、至陰。
- 腎兪、大腸兪。
- 志室 圧痛の強い側に取る。
- 勃起不全があれば、第11胸椎~第3腰椎督脉上と仙椎の督脉上の圧痛全てに知熱灸3壮ずつ。
- セルフケア
- 上記のツボにドライヤー灸。奇経にはドライヤー灸&金銀粒貼付。
- お風呂で決して痛くないように睾丸を揉む。
- 証 肺虚からスタートして腎虚に変わるか腎虚からスタートして肺虚に変わることが多い。
岡本一抱に学ぶ東洋医学における発生学🌟🌟🌟
- そもそも万物はさまざまに変化するとは言っても、その出所は天地の造化の一気に過ぎません。造化とは何のことを言うのでしょうか?陽気が降り陰精が昇るという陰陽昇降の一気を造化とします。ですから人の心陽は降り腎陰は昇るわけです。その心腎陰陽昇降の交わる一気は、中焦胃の腑にあり、これを名付けて胃の気とし、後天の元気とします。宇宙にはたくさんの万物がありますけれども、この気の交わりがなければ生育することはできません。人身もまたこの胃の気によらなければ精神血気を養い生を保つことはできないものです。
- 天地の開闢(かいびゃく)以来、人々が連綿と命脉を絶つことなく来ている理由は男女の道によるものです。その精が至るということ気が交感するということは、心腎両臓によるところのものです。また後天の水穀を受けてその精神を養う大本は胃の気にあります。であれば、諸々の臓腑血気筋骨といった全身は心腎胃の三蔵から生ずるものです。まことに医家のもっとも要とすべきところであり、人命の根源であるということがよく理解できるでしょう。
- そもそも医を学ぼうとするのであれば、先天の五臓の生じる本および自身の胎がどこから来たものなのかということをよく理解しておかなければなりません。
下焦蔵精
- 万物においてその形が生じる始めは、天一の真水が凝集することによります。ですから受胎が生じる始めも、父の精が凝集することによります。腎は下焦に位置し脊の十四椎の両傍に付いてその形はささげのようで、天一の真水の精を蔵畜しています。ですから諸臓の中にあって、腎は生胎の源、人身の根本とするわけです。
- 右腎命門
- 金生水
- 腎精蔵
- 溺出下竅
- 精路
- 男女泄精厚薄
- 房後陰痿
- 父精生胎
- 十月留胎
- 茎戸
- 経水
- 子宮
- 胞衣
- 胎中留血非瘀血
- 経水非気滞瘀血
- 子門
- 胎向母
- 腹婦採豆
母の腹の中で飲乳してはいないわけですけれども、妊娠して背を伸ばして高いところにあるものを取ろうとすると、腹の皮が引っ張って急迫し、胎息を動揺させてしまうことがあります。
身を屈めて腹皮が緩むようにしていると、胎は安静を保つことができるわけです。
ですから、妊婦が豆を採って身を屈めるようにするとよいということは、養生家の法にかなっているということになるわけです。
- 雙胎
雙胎(双子)は、一晩に二回の会合があったり、一会の間に男が精を二回泄らしたりします。
すると、子宮はまた開いて男の精を二回納れることになります。
交会の間子宮が開き、男の精がその子宮に入るとすぐに子門が閉塞して再び開くことがないというのが婦人の常道です。
ですが、子宮がまた開いて男精もまた再び納まりますから、二度の精を蔵し留めることとなり、雙胎ができるわけです。
けれども妊娠する子宮は一つです。
雙胎あるいは三胎を孕んだとしても、子宮に二つはありません。
一つの子宮であるいは二胎あるいは三胎を蔵するわけです。
これらはすべて常道ではないものです。
雙胎を産んだ場合にその兄弟を決める際、先に産まれたものを弟とし、後に産まれたものを兄と世俗ではします。
納得のできることです。
始めて会した精胎は子宮の中の奥に胞され、後に入った精胎は子宮の前に胞されます。
ですからその前のものが先に産まれて奥のものは次に産まれるわけです。
このため、第一産を弟とし、第二産を兄とするのはもことに理のあることなのです。
- 産十月
婦人の妊娠期間が十ヶ月なのはどうしてでしょうか。
九は黄鐘で数の極みです。
ですから九が終わって十月で産むわけです。
自然の理です。
- 乳汁
出産後は乳汁が通じます。
乳汁が出ている間は、経水が必ず止まって下らないこともまた自然の理です。
乳汁が出ている間に経水が下るものがためにありますけれども、このようなものは「変」に属し常道ではありません。
上に通じる乳汁も下に泄れる経水も、ともに血液が化したものであって、中焦における水穀の精微の気から生じているものです。
経水が赤色で乳液が白色なのは、赤い皿の水は赤く白粉の水は白いようなもので、その注ぐ部位に従って色が異なるわけです。
中焦における水穀の精液から発しているわけですけれども、経絡に注ぐものは化して営となり赤色であり、上焦の肺分に注ぐものは、金の気に化せられて自然に白色になるわけです。
乳汁が出ている間は経水が止まって下らないのは、下部に達するべき精液が上部に溢れ出ているためです。
これは自然の理であり、人身が行うことのできることではありません。
また、すでに出産している夫人の乳汁が必ず出るのは、天がこれを生じてこれを養うという自然の道です。
天が万物を生じる際には、必ずこれを養うものを供えます。
小児が産まれてその歯がまだ生えずその臓腑がまだ充実していないうちは、大人が食べる穀味でこれを直接養うことはできません。
そのため、母の血液を化して乳汁にし、泄らしてこれを吸わせて養うわけです。
天が雨露を降して万物を潤養するということと同じことです。
すべては天地自然の仁に出ているものなのです。
- 男女受胎
男女の胎を生じることについては(産み分け)古くからさまざまな議論があって、統一された結論は出ていません。
陰陽平にして物というものは生じます。
陰陽の偏勝がありながら胎息を生じることはありえません。
ただ父母の交会の間、陰陽感動の気にしたがってそうなるのです。
あらかじめその理を測り知ることはできません。
たとえば草木は五葉に生じあるいは三葉に生じあるいは赤い花白い花の異類を生じますが、どうしてかはわからないということと同じことです。
ともに生物の自然ということになります。
男女交会の時に、父の一滴の真精が妙凝して胎を受ける際、自然に天地陰陽の賦するところがあって男女の胎を始めて分けます。
男女の胎を生じるのは天地自然の妙道にあり、人がなすところではないわけですから、その理もまた人のよく測り知ることのできないところのものです。
胎がそのように生じる理由を測り知ることができるなれば、人々が思い通りに子を生じることもできるはずです。
男女の受胎は自然に起こることであって、人智の及ぶところではないというのはすなわち、反ってその理を深く理解しているものです。
男女の胎を生ずるのは、父母から直接生じているとは思ってはいけません。
天地陰陽の気を父母に借りてこれを生じるのです。
その天地陰陽の中において、陰を主として受けるものは女胎となり、陽を主として受けるものは男胎となるわけです。
- 気化形化
婦人が妊娠して第一月から男女の形質が具わるわけではありません。
妊娠して一月は白露のようで、二月は桃花のようで、三月で始めてその兆しが徐々に生じてきます。
鶏卵のように始めから形があるわけではありません。
月日を積んで徐々にその形を生じます。
始めに生ずる胎形は、五臓においては腎です。
形においては頭鼻です。
ここから次第に諸蔵全身がしっかり具わります。
このため、ものの長を頭と呼び、ものの始めを鼻祖と呼んでいるわけです。
ある人が、太極が分かれて天地が位置し、五行が備わって万物が始めて生じるには、必ずその種があってそうなるのでしょうか違うのでしょうか?と聞きました。
答えて言いました。
種があります。
気が種となるものがあり、形が種となるものがあります。
天地が開き、始めてものが生じるときには、すべて気を種とします。
これを気化と名付けています。
万物がすでに生じた後、物から物を生じるときは、その形気を交え合わせてこれを種とします。
毎年決まった季節に生じるもののように、物から物を生じるものを、形化と名付けています。
たとえば、箱の中に自然に小虫が生まれでるものは、気を種として生じているので気化です。
現代において考えると、松や柏を生じる土地があり、竹類をよく生じる土地ががありますが、これらはみなその土に気化の種があるためです。
そもそも草木虫魚に至るまで、形化の種なくして自然に生ずる物はことごとく気を種として自然に化生したもので、これは気化です。
すでに一男一女が化生されていれば、これが互いに形気を交合し、人から人を生じていますから形化です。
箱の中において、自然に小虫が始めて生じた後、その虫から虫を生じていくつにもなるものは形化です。
開闢の始め、人身や万物が始めて生じたものは気化であって、人が人を、物が物を生々して尽きないものは、形化となるわけです。
- 子宮有鑄
万物の形質というものは、春温を得て生じ、冬寒を得て尽きるものです。
その冬季に失って春季に生じる形質は、毎年すべて同じで少しも違いがありません。
思うに、冬季その形が消失してその種もなくなっているならば、来春に生じるものの形もまた異なっているのではないでしょうか。
けれども毎春同じ形に生じて変わらないのはどうしてなのでしょうか。
答えて言いました。
その種は消尽するとしても、これを生じるところの鑄(いがた)はまだそこにあります。
ですからその形が同じで差がないわけです。
たとえば。金を溶かして一つの鑄に入れると、何回鑄出(ちゅうしゅつ)してもその形は同じで差がないようなものです。
子宮は鑄です。
父精は溶かす金汁です。
鑄出された形は子です。
一滴の父精が母の子宮に入り、鑄出する子宮の鑄に限界があるために、諸婦人が生じるところの人の胎はすべて同じで、その形に差がないわけです。
- 悪阻
妊婦が患う悪阻の理由は何でしょうか。
妊娠している婦人は、その子宮の中にいつもは存在していない男精を留めています。
そして血海の精血は浮き溢れて、内の気はいつもと異なりざわついています。
このため悪阻を患うわけです。
血海の精血が浮いて逆すると吐逆します。
精胎の気が緩んでいるときはそれを収斂させようとして酸を好みます。
精胎の気が急なときは、それを散じようとして辛を好みます。
けれども日を積み月を重ねていくと、子宮の精血が定まり、悪阻もまたなくなります。
治療する必要は必ずしもありません。
- 男女変声
心気は降り腎気は上り、心腎両臓の気が上下に張って陰陽が平となります。
ですから、男女まだ会さずに精をまったく泄らしていないうちは、上下の両臓が張り合っていますので、その声音を出すと清く高く響きます。
けれども始めて交会して精を泄らすと下焦が疎通して、上下に張り合っていたものに偏勝がおこります。
そのため音声が濁悪となるわけです。
陰虚虚労の人はその声が嗄れて出にくくなるという理もまた同じことで、腎水が耗虚して、心腎上下の張り合いが失われるためです。
鼓の上下の皮がよく張り合っていればその響きは清く高いですが、もし一方の皮が破れているものを拍つと、その皮の破れから泄れて音の響きも清らかではなくなるようなものです。
だいたい以上の深い論理に達した上で蔵象を考えるならば、人身において貴ぶべきものは、下焦蔵精にあることがわかります。
ここが治療の枢であり、医学の要、素難の奥旨です。
三焦心包有名無形論
~《難経》は、句句すべてが理であり字字すべてが法です。
中でもこの二十五難は医学にもっとも切要なものであり、その義も新奥です。~
- 三焦は無形
三焦無形の理については、まず《八難》の『諸々の十二経脉はすべて、生気の原に係ります。いわゆる生気の原とは、十二経根本のことで、腎間の動気のことを言います。これは五臓六腑の本であり、十二経脉の根であり、呼吸の門であり、三焦の原です。』と述べられているところと、《六十六難》の『臍下腎間の動気は、人の生命であり、十二経の根本です。ですからこれを名付けて原と呼んでいるわけです。三焦は原気の別使であり、三気を通行させて五臓六腑を経歴することを主ります。』と述べられていることから推し測るべきでしょう。
腎間の動気というのは両腎の間に根ざしているひとつの陽気です。
これは私も人も資(もと)として生じた先天の元気です。
天地の間では、冬至における来復の一陽が地下に根ざし、これがすべての元気となって四季や万物を造化していきます。
草木のようなものもその元気は根にあり、これは枝葉や果実に化していきます。
人身における元気も、父から受けて臍下腎間に存在し、全身の生化の根本となります。
これを名付けて原気と呼んでいるわけです。
三焦はその原気の別使です。
別使とは何なのでしょうか。
臍下腎間の陽気はそこにいるままでは生気の化をなすことができません。
常に発して上下全身に往来運行して働かなければならないのです。
その働くところを別使と呼んでいます。
これが上下に往来通行して働くからこそ、血気が五十回もめぐり、一万三千百息の呼吸も出入し、水穀を飲食し、消化もし、大小便の通利もあるわけです。
いやしくもこの原気の往来通行の働きに大過不及 遅速渋滞があるときは、諸病が必ずここから生じることとなります。
臍下腎間の陽気が上下全身に運行しているこの気の働きを三焦と呼んでいるわけです。
ということは、心包も三焦も同じようなものということになるわけですけれども、陽気が出てくる位置が異なります。
膻中心の宮から出て臓腑全身に通じている陽気の徳用を心主とし、臍下腎間から出て上下全身を通行する陽気の働きを三焦と呼んでいるのです。
たとえば、行灯(あんどん)の内を三段に張り分けて、その下の一重に火をともすと、その光が三重の行灯全体に満ちていきます。
その本は一重の所に立っている一つの灯火から出た光です。
その灯火を臍下腎間の動気とします。
三重の方の行灯全体に満ちている光を三焦とします。
このことから三焦が無形であって腎間の動気の別使であるということを工夫してください。
三焦は下部の陽気が別れて働くものだということを理解していれば、肺は相傅の官で治節が出るということで、肺が全身の気化の総てを司り、肺から全身それぞれに気を配り布くということも明らかとなります。
どうしてかという、全身の陽気の化はもともと腎間にあるわけですけれども、その気が燻蒸して上るところは上の肺です。
香炉の煙がもともとは炉の中の火から出ていても、立ち上って上の蓋を伝ってそこから香気が部屋中に満ちていくようなものです。
腎間の陽気は炉の中の火です。
その煙は三焦の気です。
その蓋は肺です。
ですから肺は気を統べ、ここからすべての気化を全身に配り布くものだということが明白になるわけです。
三焦を形があるものだと見るとこのような理においても昧(くら)くなってしまいます。
天に形があるのかというと、形はないものです。
ただ一つの気が治水万物を囲んでいます。
天文学者などが天は鶏卵のようだというのは誤りです。
天地の間は一つの気が満ちて囲んでいるもので、これが天地の三焦です。
天地に充満している三焦の気と人身に充満している三焦の気とが一つになっているため、この小さな耳目だけで広大な見聞きすることができるわけです。
《三十一難》に『三焦は水穀の道路で、気の終始するところです』と述べられていますがこれも、全身に通行して充満している気を三焦としているためです。
三焦の気が向(みはり)に出て飲食を通じさせ、これを消化し、これを排泄させているようなものです。
《八難》では先天の三焦のことを述べ、《三十一難》では後天の三焦のことを述べ、《六十六難》では原気の別使は三焦の本根であることを明らかにしています。
今現在において、水穀によって生じた気は後天の元気であり、腎間の動気の別使である三焦の気は先天の元気です。
先天と後天とが一つになって全身を養っているわけです。
ですから《刺節真邪篇》に、『真気とは、天から受けた気と穀気とが併さって身体を充たしているものです』と述べられているわけです。
三焦は無形の元気です。
他の臓腑のように形があってひとつづつ囲いがあるようなものではありません。
その気の用(機能)は広大で、上下全身毫毛の先までもこれが及んでいないところはありません。
ですから他にこれと同輩のものはありません。
ただ三焦だけです。
ですから《霊枢・本輸篇》では、三焦を弧の腑とし、《三十八難》では外の府としているのです。
他にこれと同類のものがないためです。
それなのに三焦を有形であると見てしまうと、医道に大きな相違が生ずることとなります。
三焦は元気であるとだけ心得ておけば、元気には形がないため無形の理についても自然に理解できます。
ただ人身において要となるものは三焦です。
ですから《六十六難》では『原というのは三焦の尊号です』と述べられているのです。
三焦が正常であれば全身も正常で平安です。
三焦が和していなければ諸邪がこれを犯し諸病はこれによって生じます。
ですからこれを名付けて守邪の神と呼んでいるわけです。
医道は三焦を眼目とします。
病因を察し治療を行うに際してすべて、三焦ひとつを相手にしていることです。
越人は深く医道の奥義に達して心主 三焦が無形であるということを明らかにしました。
後学を導き医源を指南する恵みの実に大きなこと、これを過ぎるものがないほどです。
けれども後人はこれを反って有形として医の教えを昏(くら)くしてしまいました。
後学を惑わさせる失(とが)はこれより大きなものはありません。
有形の説に従う学者は必ず人を殺すこととなるでしょう。
慎み恐れなければなりません。
諸経絡はすべて三焦に通じるものです。
このため《八難》に『諸十二経脉はすべて生気の原と係ります。』と述べられており、《十六難》では『臍下腎間の動気は、十二経脉の根本です』と述べられているわけです。
三焦は諸臓 諸腑 諸経 諸絡を通行して全身のどこにもこの気を受けないところはありません。
上焦の宗気 中焦の営気 下焦の衛気の三気はすべて三焦の気にしたがって運行しているのです。
ですから《三十一難》に『三焦は気の終始するところ』と述べられているのです。
腎間動気論
《八難》には『寸口の脉が平であるのに死ぬ者がいるのはどうしてなのでしょうか。諸十二経脉は全て生気の原に係ります、いわゆる生気の原とは、十二経の根本のことを言い、腎間の動気のことを言います。これが五臓六腑の本であり、十二経脉の根であり、呼吸の門三焦の原です。一には守邪の神とも名付けられています。ですから、気は人の根本なのです。この根が絶するときはすなわち茎葉も枯れます。寸口の脉が平であるのに死ぬものがあるのは、生気が独り内で絶するからです。』と述べられています。
《一難》で寸口を取って死生吉凶を決断すると述べられているわけですけれども、寸口の脉は平でことに死変の徴候が現れていないのに死ぬ人がいるのはどういう道理なのでしょうかと聞いているわけです。
『諸経脉は全て生気の原に係ります』
寸口の脉は手の太陰肺経の動です。
総じて肺経に限らず諸十二経脉はすべて生気の原に係りつながりがあります。
寸口の脉が平であるのに死ぬ者は、この生気の原が絶えたことがその理由です。
『いわゆる生気の源とは、十二経の根本のことを言い、腎間の動気のことを言います。』
この生気の源とは何のことを言うのかといううと、十二経の根本、腎間の動気のことを言います。
諸経脉は、上昇の宗気 中焦の営気 下焦の衛気の三気が循環するところです。
この三気は三焦によってめぐります。
三焦は腎間の動気の別使です。
ですから諸十二経脉は腎間の動気を根本としています。
天地の間の四季の往来や万物の造化は何によって行われているのかというと、冬至に来復した一陽の気によってなされています。
この坎中の一陽は十二支で言うと子にあたります。人身の生化もまた、両腎の間の水中に含蔵されている一陽の陽気によってなされているものです。
そもそも私や人々が生じるのは、男女の両精が妙合したものなのですけれども、その種となっているものは父の一滴の精だけです。
ですから《霊枢・天年篇》に『母を基とし父を楯とします。』と述べられており、これを註解する者は稼穡(穀物の植え付けと採り入れ)にたとえて、『必ずその地を得て種を施します。地は母です。種は父です。』と述べています。
父の精だけから胞を生じるということは、この言葉からも明確に理解できます。
その父の精は単独では泄れません。
男女が交会して男がその心に感じたとき、膻中が動じて下焦に泄れます。
心陽の気が下焦に移り水中の陽気によって動じるわけです。
その動によって泄精するため、精の中には自らの心腎が貫通した陽気が含蔵されます。
これが妙合して胎を成す際、その神はその子の膻中に存し、その精は子の両腎精となり、含蔵された陽気の根がはその両腎の間に留まり続けて、私たちの生化をなします。
これが腎間の動気です。
実(まこと)に人身の精気のい源そのものではありませんか。
ですから上文ではこれを名付けて生気の原と言い、下文ではこれを五臓六腑の本、十二経脉の根、呼吸の門と述べているわけです。
いやしくもこの腎間の陽気がなければ、五臓六腑も生化することができず、宗気 営気 衛気が十二経脉を循環することができず、呼吸の一万三千五百息も出入することができません。
実に五臓六腑の水源 十二経脉の根元 呼吸の戸なわけです。
- 腎間の動気
腎間の陽気は常の場合は、ただ水を温める程度のことで、これを探しても見つけることはできません。
これが発動することによって含寓されている陽気があったのだということがわかるのです。
三焦は腎間の原気の別使ですけれども、常の場合は、これを見ることはできません。
発動することによって腎間三焦の陽気があったのだということがわかるのです。
蛍の光が昼間は見えなくとも夜ははっきりと見えるようなようなものです。
また人の目の中は血液だけですけれども、その血液の循環が正常であれば白目の部分はすっきりと白く、一筋の赤みはありません。
もしその血液が少しでも渋滞すると、赤みが必ずあらわれてくるようなものです。
腎間三焦の陽気も、常の場合はわかりません。
動くことによってこれがわかります。
このため陽気とはいわずに動気と言っているわけです。
けれども後世、その動気を候うということを立てる者がありました。
ある者は、足の少陰腎経の内踝の後ろの跟骨の上の太谿穴の動脈でこれを候うとしました。
またある者は、尺脉でこれを候うとしました。
これらの諸説は全て間違いです。
腎間の動気は臍下丹田気海の地に含寓しているものであって、これを探してわかるような気ではありません。
ですから越人は結句で、『生気が独り内に絶します』と述べているのです。
この「内」という字に深い意味があります。
その外候が有り得ないということをこの『内で絶します』という一句を用いて、工夫してください。
- 守邪の神
『一には守邪の神とも名付けられています』とは。
腎間の陽気が堅固であれば三焦も堅固で、どのような邪もこれを侵すことができません。
諸邪が病を起こすのは、腎間の陽気が堅固ではないためです。
ですからこれを名付けて「守邪の神」と呼んでいるのです。
《評熱病論》に『邪の湊るところは、その気が必ず虚します』と述べられています。
これも腎間三焦の気が行き届かないところには、必ず邪気が湊り侵すために述べられている言葉です。
- 独り内で絶す
この「独」の字には実に深い意味があります。
生気が内に絶すると、その人はすぐに死ぬはずです。
どうして寸口が平で、まだ死なないのでしょうか。
生気がすでに独り内で絶しているとはいっても、外に穀気からの養いがまだ尽きていないため、しばらくの間は寸口を平に保っていますけれども遂には死絶します。
寸口の脉は後天の胃の気が化したものです。
腎間の動気は先天の生化の源です。
先天がすでに尽きていても後天がまだ尽きてはいないために、寸口が平でしばらくの間生きているわけです。
ですから越人はこの心を「独」「内」の二字に持たせているわけです。
学ぶ者はこの二字を深く工夫してください。
たとえば切り花は、生気が内に絶しているものです。
水に入れれば枯れないのは、寸口の脉が平ということです。
人身が死ぬときは、先天が尽きて後天がついに尽きる場合と、後天が尽きて先天が最後に尽きる場合があり同じではありません。
医者はこれを考えて、死期の早い遅いを測らなければなりません。
- 腎間の動気は命門の火
五行論
- 五臓の成立
天地万物はすべて始めは水から生じます。
ですから人身においても、一滴の精が凝ってこの形体を生じます。
精は水です。
水だけであれば陰だけなので形ができることはありません。
ですから精の中には必ず自然に一つの陽気が備わっています。
これがすなわち神です。
天一が水を生じ、地二が火を生じて、水中には早々に火が備わり、水火が離れることがないということが、天然の常理です。
ですから人の体の始めに精が凝るとき、その中には早くも神が備わっているわけです。
精と神という水火が具わっているので、ここから次第に形体が生じ完成されていきます。
けれどもこの精神だけでこれを養う道筋がなければ、精神もついには絶してしまいます。
ですから精の中から血が分かれ神の中から気が分かれ、血気が運行されることによって精神を養う道筋となっているわけです。
たとえば、草木に根があれば必ず枝葉が生じるようなものです。
精神は根であり血気は枝葉です。
この血気が上下に運行している間に、交気の一気が具わります。
天気が下降し地気が上升して、その升降の間の交わる一気があり、これが万物を化育させる元となります。
これと同じように、血気が運行されて升降し交わる一気が、後天の元気となって人の生をなします。
ということは、人身は、精 神 血 気 交気(営)の五気によって生ずるものです。
この五気はそれぞれ蔵されるところがなければなりません。
そこでその五気が蔵されるところを立てて、五臓とします。精は腎に蔵されて、神は心に蔵されて、血は肝に蔵されて、気は肺に蔵されて、交気は脾に蔵されます。
これによって五臓のことは大概は済みました。
- 五臓の位置
先人は身体の腹中を上下の二段に分けて、精は水ですから下段に置き、神は火ですから上段に置き、血は精の中から分かれた枝であり、気は神の中から分かれた枝ですから、血気は精神の上に置きました。
本は下にあり末は上にあるのが必然の理ですから、血は精の上に置き、気は神の上に置きます。
さて、交気は中の分です。
中は上下の内では下の分ですから、上下二段のうちの下の段の中央の境に置きます。
- 五臓の陰陽
これに陰陽を立ててみると、精は水陰で下段の陰位にありますから、陰中の陰で太陰です。
神は火陽で上段の陽位にありますから、陽中の陽で太陽です。
血は精の中から分かれたものですけれども、完全な陰ではありません。
どうしてかというと、血は赤色で運行して息むことがないので、陰でありながら陽の用(機能)があるためです。
ですからこれを陰中の陽とし、少陽とします。
気もまた神の中から分かれたものですけれども、完全な陽ではありません。
どうしてかというと、人の息を用いて熱いものを吹くとすぐに冷ますことができますし、息を漆器に吹き付けるとその息のあたるところに露を生じますので、陽でありながら陰の用があるためです。
ですからこれを陽中の陰とし、少陰とします。
交気は中の陰分です。
中は上下二段の内の陰分に属しますから、交気は陰とします。その交気が後天の元気となって、精神血気の四つのものを営(めぐ)るため。至陰とします。
「至」は貴んでこう呼んでいるものです。
このことを《霊枢・九鍼十二原篇》では『心は陽中の太陽です。肺は陽中の少陰です。肝は陰中の少陽です。脾は陰中の至陰です。腎は陰中の太陰です。』と述べられているわけです。
- 五臓を五行に配す
腎は陰精でありもともと水に属します。
心は神陽でありもともと火に属します。
肺は気を蔵して陽中の少陰ですから金に属します。
肝は血を蔵して陰中の少陽ですから木に属します。
脾は交気を蔵して中央にあり、至陰ですから土に属します。
- 精神血気営は五臓の根元
往古の聖人は、五臓と陰陽五行について論じられましたが、すべてこの理から推測されているものです。
後人はこれを理解できず、五行を五臓の本としていますが、誤りです。
その原は精神血気営です。
精神血気営があって五臓が生じます。
たとえば鳥がいるので巣ができるようなものです。
五臓五行の属性はもっとも末のことです。
ですから治療を行う場合に五臓五行に拘ると少なからず人を損なうこととなります。
ただこの精神血気営を人身における五臓の根元として、病を察し治療を施すならば、医療において少なからず神妙の効果を上げることができるでしょう。
このように考えていくと、肺は収降の金臓あり上焦に位置して華蓋となっていることも、何ら不思議ではありません。
- 精神血気体用論
一切のものには必ず体用二つがあります。
体は本であり、用は体から出た外での働きです。
たとえば燈火と光のようなものです。
燈火は体であり光が万方に充ちるのは用です。
精があると、その精が全身に及ぶところの用があり、これを血と呼んでいます。
この血が全身に布き満ちて身体の液となります。
神があると、その神が全身に及ぶところの用があり、これを気と呼んでいます。
この気が全身に布き満ちて身体の温となります。
このようにして気血という用が、身体を養う道筋となって精神を増し続けるわけです。
この気血という用が精神という体を養い、精神という体が気血という用を養い、体用が一致して人身を生化しているいわけです。
たとえば、木の枝葉についた雨露が根を養い、根がその枝葉を養って、根葉一致して生化するようなものです。
実に人身は精神血気営の五者以外にはないものです。
この五者が具足することを、人の胎の成就とします。
であれば、医学の切要とはただこの五者だけにあるわけです。
深く熟考し会得してください。
※伴尚志先生現代誤訳《医学三蔵弁解》《医学切要指南》より一部を抜粋しておりますが、大変に良著ですので、ぜひ書籍をお買い求めいただき深く学ばれてください。
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